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【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第13回 初期「サザエさん」の衝撃

日本のアニメは、いつからどのようにして現在の姿に近づいていったのか? そのきっかけは何か? そういうことに関心がある。物語と時代性の関連のみに着目し、作家性主体で解明しようとする論には、限界を感じる。アニメーションは総合芸術。フィルムに焼きつけられた「技術・表現・内容」は相互に深く関わりあうもので、不可分である。  技術レベルの差によって、描ける内容も規定されてしまう。テレビアニメに関して言えば、1960年代中盤に市場が急速拡大した後、1970年の大阪万博に前後するあたりでいくつかの技術革新を迎え、それが第二の発展期を誘発している。視聴者層の成熟と併走して映像表現の領域が拡張されたことで、相互作用が物語のめざす地平にも影響をあたえ、文化の流れを激しく変えたのだ。  「どろろ」の次なる虫プロダクション作品「あしたのジョー」は、1960年代とは次元が異なる領域が開き始めたことが明瞭に分かる代表例だ。放送開始は1970年4月、70年代の幕開けである。翌年はタツノコプロの「アニメンタリー 決断」(1971年4月)や東京ムービー(現:トムス・エンタテインメント)の「ルパン三世」(同10月)がスタートしている。共通項は「トレスマシンによる劇画タッチ、イラスト的表現」「透過光による夕陽や曳光弾などの刺激的なコントラスト」「エアブラシやドライブラシを使った特殊効果(仕上げ)の質感表現」などなどの技術がふんだんに投入され、「野性味あふれる荒々しいテイスト」を獲得している。対照的に、60年代アニメのルックが牧歌的に見えてしまうのは革新が一挙に起きた結果ということだ。  これを可能とした要因は、1点に絞りこむことも可能だ。それが前回話題にした「白黒からカラーへの転換」である。テレビ放送の完全カラー化が1972年春なのは偶然ではない。テレビ受像機というプラットフォームが進化して表現力が向上した。その時代の潮流に「適応している」という意志表明と差別化のために、「今ならここまで表現できる」と、本来テレビアニメ向けではなかった手のこんだ技術が適用されたのだった。  さて、技術主体で「アニメ進化論」を考えるとき、必ず対立的に大きな存在が浮上してくる。それは今年で放送50周年を迎えるエイケンの「サザエさん」である。放送開始は1969年10月――まさに「1960年代と1970年代の境界」に位置している。  同作最大の特徴は、半世紀の時の流れに影響されない「永遠の不変性」だ。日曜日午後6時半になると、何年代でも同じテイストとルックの「サザエさん」が見られる。全テレビアニメを年ごと枠にいれて「放送開始」「放送終了」を結んだ「線表」を作成すると、「サザエさん」の線だけが70年代以後、果てしなく伸びていく。「アンチ・メルクマール」とでも呼びたくなるほど、歴史上では恐ろしい存在感を放っているのだ。  それで思い出すのが、20年ほど前によく飲み会などで話してた「サザエさん全話LD BOX」というギャグである。「絶対に無理」「どんだけの厚さになるんだ」「そもそも、どうやって見返す?」などなど、ツッコミに事欠かない。その絶対的な「不可能性」が「ふだん全話BOX買ってもなかなか見ない」という、一同密かに抱いている罪悪感を自虐的に刺激する。その点では、批評的なモノサシとして機能することもあったりする。  そんな風に「絶対無理」と思いこんでいた奇跡が、ついに起きた。50周年を機に「初期サザエさんの検証」のネット配信が開始されたのだ。2018年12月26日からFODとAmazon Prime Videoで開始され、対象は第1話から53話までのうち初期50話分となっている。欠落した3話分はネガの損壊で再生不能だったというから、ギリギリのタイミングではないか。  初期エピソードの作画や演出のタッチが現状とあまりに違うことは、すでに番宣記事やネット上の感想でも大きな話題になっている。キャラクターの指が尖っていたり、顔をしかめるとシワが寄るなど、ニュアンスが何かとワイルドで、やたらと暴力的なギャグがあったりする。ただしこれは原作のテイストによる部分もあり、先行していた江利チエミ主演によるテレビドラマ版のオープニングでも毎回、サザエがカツオとワカメを追っかけて殴っていたりした(しかもアニメで)。

【藤津亮太の「新・主人公の条件」】第2回 「新幹線変形ロボシンカリオン」速杉ハヤト

「新幹線変形ロボシンカリオン」の主人公、速杉ハヤトは3クール後半あたりからぐっと魅力的になった。  それまでもハヤトは十分おもしろい主人公ではあった。キャラクターを印象づける方法のひとつに「特定の行動を徹底させる」という手法があり、ハヤトの場合は、新幹線を中心とする鉄道関係の話題がそれに相当する。ハヤトは、普段から鉄道用語や新幹線うんちくを織り交ぜた会話を繰り広げるだけでなく、難しそうな問題も「新幹線(鉄道)に喩えること」で理解・解決していくという描かれ方をしていた。  この一点集中の突破力がハヤトというキャラクターの愛嬌でもあり、同時に「シンカリオン」という作品の愛らしいポイントにもなっていた。それが3クール目後半から、その「新幹線(鉄道)好き」という部分がぐっと深められることになったのだ。  きっかけは第36話「南へ!!桜島の敵アジトを探せ」。この話数では、作戦を前に、ハヤト、アキタ、ツラヌキ、シノブといった東日本側のメンバーが、西日本側のレイ、タカトラ、ギン、ジョウと手巻き寿司パーティーを行う姿が描かれる。この時、ハヤトたちはせっかくの手巻き寿司に違和感を抱いてしまう。  この違和感の正体は、西日本と東日本の醤油の味の違いだった。それをハヤトは電源周波数が東日本と西日本で異なることに結びつけ、「50Hzでも60Hzでも走行可能なE7系になるべきだ」と結論を出す。  鉄道という高速移動・大量輸送の交通機関ができたことで、地方各地の文化が出会い、その出会いが広がっていくことで「わたしたち」は形成されている。ハヤトの「異なる人や文化を受け入れ、繋ぐ存在にならなくては」という気付きは、つまり「新幹線に憧れる」のではなく「自らが新幹線になる(新幹線が体現した思想を生きる)」ということにほかならない。「夢を見るより、夢になろう」(「ロッキー・ホラー・ショー」)という言葉があるが、ハヤトはそういう形で「憧れ」が持つ要素を自ら体現しようとするキャラクターになったのだ。  そして、当然ながらこの「異なるものをつないでいく」という対象は、敵であるキトラルザスにも向けられることになる。  第36話でもハヤトは敵を刺激しないために単身乗り込み、第39話「対話!!ハヤトとリュウジの空手修行」では、戦うためでなく、(メカ同士ではあるが)拳と拳を交わすことによって“言葉のない対話”をしようと試みる。  ハヤトのこの姿勢があるからこそ、そこに続いて繰り広げられる、キトラルザスのエージェントであるゲンブ、そしてセイリュウとの交流という展開も可能になったといえる。  登場人物たちのハブとなる主人公は少なくない。だが、誰よりも飛び抜けて個性的なキャラクターが、そこでひとつ突き抜けたことでハブになっていくという展開は珍しいと思う。そこまで「好きを徹底していること」がハヤトを主人公たらしめている要素なのだ。