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【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第7回 緻密な絵コンテの功罪

アニメの「絵コンテ」が書籍やビデオグラム特典となり、接する機会が増えた。そのわりに、意外と本質は知られていないのではないか。高畑勲監督の絵コンテが「人体や顔をマルで略し、どちらを向いてるかチョンと描く」という通称「マルチョン」であることが、特別であるかのように語られていたのを読んで、そう思った。漫画のようにコマ単位の絵の良し悪しで絵コンテが評価されているとすれば、それは違うのではないか。  原因の根本は、1984年にアニメージュ文庫(徳間書店)として発刊された「風の谷のナウシカ 絵コンテ」(全2巻)にある。あれがスタンダードだと思われて、ラフなものに違和感が出たのだろう。同書は「映画の設計図」としての価値も高く、絵コンテの存在を広く世に知らしめるきっかけとなった。教育用に書かれた用語解説「アニメーション画面処理について」でカメラワークと撮影処理も図解入りで手短にまとまっていて、スタジオという密室で専門職にしか流布されていなかった「秘儀」が明らかにされたことで、多くの入門者を生んだ功績は計り知れない。  ところがそこに大きな落とし穴もあった。「絵コンテはこう描くもの」という誤解が同時に拡散したのである。「コンテ段階で絵を入念に描きこみ、作業者は監督の設計にビシッと合わせて達成度を上げていくのがアニメづくりだ」という錯覚も生まれたかもしれない。宮崎駿の場合、レイアウト、舞台設定をカット運びと同時に決められる資質があり、アニメーターとして動きのイメージを明確に持っているため、卓越した才能に合わせたスタイルが選ばれたというだけのことなのに。つまり「宮崎駿監督に最適化された方法論」が拡大流布されていると思うのである。  最初の話題に戻ると、高畑勲のスタイルは出身の東映動画(現:東映アニメーション)が映画の会社だという影響が大きい。同社は昭和40年代の映画斜陽化にともない、実写の撮影所から配置転換されてきた演出家が多く所属していた。高畑が助監督として師事した芹川有吾監督もそのひとりである。実写畑の演出家の指示するコンテは、文字や口頭でカット割りを示したものを作画監督が清書して絵コンテに起こすケースが多かった。だから、「マルチョン」のコンテは高畑監督だけが特例ではない。  そもそも「コンテ」は「コンティニュイティ」の略であり、重要なのは「映像の流れ」だから「マルチョン」でもいい。演出家はカットごとバラバラな映像と映像の間にどう連続性(時に断続性)をもたせ、物語に寄りそった時空間を設計するかが仕事だ。だから、コンテ段階では具体性の乏しいラフな絵で「流れ」を検証したほうが有利な場合がある。実際、富野由悠季監督の著書「映像の原則 ビギナーからプロまでのコンテ主義」にも「コンテの絵は一所懸命に描いてはいけない」と明言がある。理由は「(描きこむと)カット運びが固くなります」だ。そして「コンテは、カットの流れ(つながり)を見るものですから、その画によって構成された映像が、どのような視覚的な効果を生み出しながら、映像世界を構築し、物語っているのかを予定するものです」という言葉は非常に重い。  「画の流れ」と「画づくり」が必ずしも一致しないという件では、特撮での取材を思い出す。「ウルトラマン80」(80)のキャメラマンだった大岡新一(円谷プロダクション前社長)に、毎週撮影の過酷なスケジュール下でどうやってあの緊密なカットつながりを実現したか、聞いてみたのである。  まずコンテ(カット割り)は、特撮監督の高野宏一が文字で指示する(字コンテ)。現場ではキャメラマン(撮影部)がコンテを元に照明部と美術部に指示し、「画づくり」の最終責任者の役割をうけもつ。たしかに「特撮の神様」円谷英二もキャメラマン出身であった。特撮ステージのミニチュアセットは固定されたものではなく、アクションには広い場所が必要など組みバラシがある。だから、コンテで指示された順に撮ると絶対に間に合わない。そこでキャメラマンがコンテを具体的につながる画として設計して、「そこで前転して」「そことそこのセットをこう組んで」など指示を出し、ファインダーをのぞいて画(レイアウト)を決めつつ、役者と美術と被写体をコントロールする。指示されている側は全体像が見えないまま動く。編集段階で順番を入れ替えてフィルムをつないだとき、その真価が分かるのである。  もちろん実写でも絵コンテを描いてイメージを共有する場合はある。特にCG時代以後は並行作業になってアニメと同じ「絵コンテ必須」になってきているが、絵なしのコンテでも成立するという事実は重要だ。ということは、「絵コンテ」には「絵」と「コンテ」とふたつの役割があることになる。実際に高畑勲監督と組んで宮崎駿がレイアウトを担当した「赤毛のアン」(79)の絵コンテを入手したときは、宮崎駿の修正コンテ部分が「マルチョン」になって「絵」は淡泊だったので驚いた。おそらく高畑勲監督の口頭指示を絵コンテ化し、描きこみはレイアウト段階で煮詰めようと思ったのだろう。宮崎駿による緻密でない絵コンテの実在からも、「ナウシカコンテ」の描き方が「自分で監督をやる場合の方法論に過ぎない」事実が明確となる。  詳細な絵のコンテだと、その重みに引きずられることも弊害だと聞いた。つまり、コンテ内の再現が優先されてしまい、足されるものがないという意味だ。「絵コンテどおりにやる」のは、「良い作品づくり」と必ずしもイコールではない。実写なら役者の演技に相当するアニメーターの持ち味が足されるような「作画の伸びしろ」も必要だからだ。コンテで求められる最低限の要件を満足した上で、自由度の部分にさらなるクリエイションを加えることで、フィルムに「ふくらみ」が出てきて有機的になり、「固さ」が取れるということでもあろう。  絵コンテは音楽の「楽譜」にたとえられている。譜面上の音符ひとつひとつ、小節内に意味があるわけではない。大事なのは全体の流れであり、コード進行などふくめたトーンであり、メロディーの展開だ。それを理解した人間のプレイヤーが譜面を解釈し、音符にない強弱やスラーなどの流れを加えて、初めて音楽になるのである。「打ち込み」と呼ばれるシンセサイザー演奏が時に忌避されるのも、人間の楽器演奏に比べて自由度、ふくらみの幅が狭いからだ。  こうしたアナロジーからも「カットカットが整いすぎている絵コンテ」のリスクが想像できる。そして「絵コンテの読み方」とは漫画とはまったく違い、もっと音楽的なものであることも理解できるのではないだろうか(敬称略)。

【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第6回 ボディを彩る光のライン

秋の新番組「SSSS.GRIDMAN」に注目している。円谷プロダクションが1993年に制作した特撮TVシリーズ「電光超人グリッドマン」をベースとしたTVアニメである。2015年にカラーとドワンゴの連作短編企画「日本アニメ(ーター)見本市」の第9話「電光超人グリッドマン boys invent great hero」としてTRIGGERがアニメ化。それをさらに発展させた新作である(両者とも雨宮哲監督)。「アニメと特撮の再融合」という点でも期待のタイトルなのだ。  まだネットコミュニケーションがパソコン通信しかない90年代前半、「グリッドマン」は実に先駆的な作品だった。内閉した心をもつ中学2年生の少年がハイパーワールドの魔王カーンデジファーと接触、怪獣を開発して電脳空間に解き放ち、怪事件を起こして世間を混乱させる。同級生のパソコングループに属する少年がハイパーエージェントと合体し、グリッドマンに変身して怪獣を倒すことで平和を取りもどす。コンピュータウイルスとワクチンソフトを、いち早くビジュアル化した仕立てなのだ。モーフィングやビデオエフェクトなどの新表現は、後に「ウルトラマンティガ」(96)にも継承されたのだった。  さて新作アニメでは、ヒーローのボディに目立つ「光るライン」が気になった。「ヱヴァンゲリヲン:序」(07)で初号機のラインが「グリーンの光」に再定義されたのを代表に、多くのアニメ作品で見られる表現である。デジタル撮影の選択範囲指定で「透過光」を入れやすくなったメリットの応用で、近年ではファンタジー的な武装含め、随所で見られるようになった。  さて、この表現のルーツは何だろうか。筆者が知る限りでは1982年のディズニー映画「トロン」が、全カット常時入った事例の最古である。初めて本格的にCGI(Computer Generated Image)を導入した劇場映画で、コンピュータ世界へ転送された主人公含め、電脳キャラクターのボディスーツに電子回路のプリントパターンを模したラインが入っている。これが全カット、ほんのりと光ることで目を引き、独特の世界観と雰囲気を高めていたのだ。3D空間を疾走するライトサイクルなどCGIで描かれた硬質な被写体とのマッチングも意図のうちだが、当時のメイキング映像ではアナログの「バックライト・アニメーション(透過光)」だと紹介されている。  実写で撮影された7万5000枚の35ミリの映画フィルムを30×50センチの写真フィルムに拡大し、役者のスーツに入ったラインをロトスコーピング技法でハンドトレスする。それをモノクロ、ハイコントラストの印刷製版用リスフィルムでネガとポジのマスク素材に転写し、アニメーション撮影台でセルアニメ同様の透過光(着色・拡散)で焼きつけたものなのだ。その証拠にエンディングには韓国の人名がズラリと並んでいる。まだフィルムレコーディング技術も確立していない時期のため、ディズニーが得意とする伝統的なアニメーション分野に持ちこんだというわけだ。  では自発光するヒーローとは、アニメーションだけのものだろうか? 実は特撮でも発光は非常に重視されてきた歴史がある。かつて初代の「ウルトラマン」(66)の時代は、「電気の光」そのものが街中で少なかったため、目が発光し、危険になるとカラータイマーが青点灯から赤点滅に変化する「機電」と呼ばれる仕掛けだけで興奮した。ならば「発光」は「電気」とイコールかと言えば、そうでもないことが分かってきている。  「ウルトラセブン」(67)は、ウルトラマンよりも戦闘的なヒーロー造形としてプロテクターをデザインに採り入れ、断続的なラインの凹みを入れた。そこにライトグリーンの素材が貼ってあるのが、高画質化ではっきり分かるようになった。これは細かいレンズ状の物質が敷き詰められ、光を当たった方向にまっすぐ戻す「スコッチライト」と呼ばれる特殊なテープだ。深夜の道路工事で車のヘッドライトを反射し、人の存在を示す目的で使われているので、街中で見かけることもあるだろう。カメラと同じ位置からセブンにスポットライトを当てることで、光学合成なしにラインの凹みを発光させようとしたものなのだ。セブン本編では明確にそれと分かる映像は見当たらないが、「ウルトラマン80」(80)第8話「よみがえった伝説」に登場する「光の巨人」は、まさにこの手法で撮影されたものだった。  「仮面ライダー」(71)にも「光るライン」の事例は早期から存在する。本郷猛の仮面ライダーに代わって第14話から登場した、一文字隼人の変身する2号ライダーから腕と脚に銀色のラインが入ったのだ。これはナイトシーンでライダーと怪人が格闘したとき、ライダースーツが黒くて闇に溶け込み、見えなくなったことの対策で、2号に交代しなくてもいずれラインは入ったとされている。  「ヒーローのボディラインを光で浮き立たせる」という表現には、こうした半世紀以上に及ぶ長い歴史の積みかさねが存在している。新番組「SSSS.GRIDMAN」は、そのさらなる最前線を、どう更新してくれるのだろうか。その点でも期待は高まる一方である。