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【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第12回 「どろろ」と白黒アニメの終焉

1月から新作テレビアニメ「どろろ」が放送中だ。二度目のテレビ化である。人体欠損や流血も多く、表現的に苛烈な中から人間性の本質を浮き彫りにしようと試みる意欲作である。彩度を抑えめの色彩設計でモノトーン描写も多く、回想中心の回は白黒で表現されているなどの配慮に感心した。  テレビアニメ第1作は1969年4月から放送され、白黒制作作品の最後期にあたる。カラーテレビの普及率は1969年が13.9%(白黒は94.7%)、1970年が26.3%となっていて、20%を超えて急速に「2台目買い換え需要」が立ち上がった時期だった。以後は1971年に42.3%、最後の白黒アニメ「珍豪ムチャ兵衛」が放送された1972年には61.1%となり、以後日中帯のカラー化率は100%となる。  映画の世界では1958年の東映動画(現:東映アニメーション)による長編映画は最初からカラーだった。実写映画は60年代末期まで白黒映画が少なくなかったのに対し、アニメはNGフィルムが出にくいという性質からカラー化が先行したのである。テレビでそうならなかったのは、制作をカラー化しても受像機が普及していなければペイしないからだ。  「どろろ」の原作漫画は、手塚治虫が1967年に「週刊少年サンデー」誌上で連載開始した。戦国時代の乱世――父の欲望で身体各部を鬼神に奪われた百鬼丸という若者が、盗賊の子ども“どろろ”と妖怪退治の旅を行い、欠損を取りもどしていく。水木しげる中心に起きた妖怪ブームに対抗した部分もあり、それまで科学が牽引していた幸福感が公害問題や交通戦争など文明の暗部へと転換し始め、政治闘争が起きるという社会の大激変期の雰囲気が投影されている。アニメーション制作は虫プロダクションが手がけた。「鉄腕アトム」から6年が経過し、著名な手塚漫画も「ジャングル大帝」(65)、「リボンの騎士」(67)とアニメ化が立て続けに行われた後で、華々しい時期はピークを過ぎ始めていた。1966年初頭には「ウルトラQ」を代表とする特撮番組が選択肢に加わり、裏番組の「W3(ワンダースリー)」(65)を視聴率で圧倒するという事件も起きている。  こうした変化を反映し、1968年の虫プロは川崎のぼる原作のスポーツもの「アニマル1」や、江戸川乱歩の古典的探偵小説「少年探偵団シリーズ」を現代風にアップデートした「わんぱく探偵団」を手がけ、手塚治虫色から離れ始めている。「どろろ」の連載も迷走し、手塚はいったん連載を中断して「バンパイヤ」という人間が動物に変身するホラー漫画を始めた。このテレビ化は、系列の虫プロ商事株式会社が製作した実写とアニメーションの合成作品となった。要するに「アトム」で築いたはずの「手塚漫画を続々とアニメ化する」という虫プロの優位性と特質は、失われていたのである。  1968年でむしろ注目したいのは、10月からスタートした石ノ森章太郎原作の「佐武と市捕物控」のテレビアニメ化である。これは夜9時という「大人の時間」の異色時代劇であった(第27話より夜7時台へ移動)。制作も石森プロが元請けで、アニメーション制作をスタジオ・ゼロと虫プロダクションで分担(後期は東映動画も2話分参加)する、変則的な体制である。原作は「どろろ」の前年に同じ「少年サンデー」で連載された少年漫画だったが、1968年に青年向け漫画誌として創刊された「ビッグコミック」に転籍する。その結果、内容的にも表現的にもアダルトテイストへ大きくシフトした。特に江戸の四季の風物を詩的な映像として追うといった表現の進化は、大きな評判を呼んだ。  アニメ化もそれに呼応した成熟の映像を多々打ち出していく。特に虫プロ担当分は村野守美、りんたろうらがエッジの立った先鋭的な演出を連発し、虫プロ後期の表現主義的な印象を決定づけている。画面の大半を黒で潰し、般若の面を写真貼りつけで表現するなど、想像力を触発する挑戦的な画面づくりを続発している。描線もエネルギッシュで荒々しいものとなっていて、それはこの時期の技術革新「トレスマシン」の導入によるものだった(本連載の第2回を参照)。こうした「野性味」「挑戦精神」「表現のエッジ」は1970年代に虫プロから独立していった会社のひとつマッドハウスの作風のルーツにあたる。前回述べた川尻善昭監督の「妖獣都市」もその代表だ。2019年版「どろろ」がマッドハウスの流れをくむMAPPAと手塚プロダクションの共同制作で、60年代後半に虫プロで台頭していったアニメーター杉野昭夫が原画を担当しているという点には、大きな意味がある。  こうした流れの後に制作された「どろろ」は、必然的に手塚キャラの漫画的テイストやコミカルな表現から距離をおくことになった。スタート時の総監督は虫プロダクション創設時からのメンバー杉井ギサブロー監督で、麻雀劇画でも著名な北野英明による大人びたデザインの百鬼丸は、1970年代に急成長する思春期向けアニメの青年キャラの原型のひとつにもなった。手塚治虫自身は漫画・アニメと「どろろ」についてネガティブな発言を多く残している。テレビ化についても「予算がなくて白黒となったので不満」(趣意)としているが、これは少々定説と異なっている。先行して作られたカラーのパイロット版に対し、流血がテレビ放送にふさわしくないという意見が放送局やスポンサーサイドから出た結果、白黒が採用された。杉井監督や美術スタッフは、これをむしろ好機ととらえ、時代劇としての説得力、迫力を増すために、モノクロの重厚な時代劇映画を参考に「乱世もの」と「政治の季節」の苛烈さを重ね合わせようと試みた。だが、「ギャグものに路線変更したい」という手塚治虫の提案に違和感を覚えた杉井監督は降板し、第14話から「どろろと百鬼丸」と改題されてしまう……。  このように随所に歪みのあるシリーズではあるが、出崎統演出の第13話「ばんもんの巻 その三」のように、この時期、この瞬間にしか成しえない独特の雰囲気を宿した情熱のテレビアニメである。時代が内包したコンフリクトが、簒奪された者たちが秘めた抑圧のエネルギーを高め、挑戦的な表現として放たれたのだった。その熱い姿勢は1970年に出崎統の初監督作品となる「あしたのジョー」に受け継がれ、テレビアニメの世界に数々の革新をもたらすことにつながっていく。  こうした歴史的背景のある「どろろ」――それを2019年の新作として、どのように再提示しようとしているのか。新たな挑戦の到達点を、最後まで見届けていきたい。

【まなおのアニメ感想戦!】第2回 私と映画をつなぐ弦

今お話してもあまり信じてもらえないのですが、つい先日まで映画館にほぼ縁がなかった私。どういうわけか2017年秋(風邪を引いて熱を出していたのですが)ふらふらと足を運んだ新宿バルト9で出会ったのが、「KUBO/クボ -二本の弦の秘密-」でした。  古きよき日本を舞台にした、折り紙へ命を吹き込む不思議な三味線を奏でる少年「クボ」の物語。着物、灯篭流し、落ち葉の船……アメリカ発だと忘れるほど美しい和の心と「わびさび」に溢れた情景の中、傷を負いながらもたくましく進むクボの旅路には、胸と目頭がじわじわ熱くなりました。  物語を見届けた余韻のまま、ぼんやり熱心地の中眺めていたエンドロール中……突然メイキング映像(のちに知りますが、スタジオLAIKAの作品では恒例でエンディング中に紹介されるのです)が流れてきて、一気に目が醒めました! 本編に登場した巨大ながしゃ髑髏を吊り上げる無数のワイヤー。そのとき初めて、本作品がストップモーションアニメだと知ったのです。  その後、パンフレットや公式サイトを穴があくほど読み込みました。3秒の映像を撮るのに平均1週間!? あの船の撮影だけで1年半以上!? なんて途方もない……。そうでなくても記憶に残るストーリーなのに。知れば知るほど愕然とすることばかりで、散々打ちのめされた後、風邪を治したわたしの映画館通いがはじまりました。観るたびに気づきがある、また観なくては、とするうちに、いつの間にか8回(!)も鑑賞。不器用な誘いに応じてくれた友人たちへのお礼にパンフレットを配るなんて経験も、人生で初めてのことでした。

【藤津亮太の「新・主人公の条件」】第1回 「ゾンビランドサガ」源さくら

記憶喪失の主人公というパターンがある。この手法は、異常な状況に放り込まれた主人公を描く時にとても有効だ。主人公は自分も含め、その世界のすべてをまったく知らない。だから、主人公がその世界のルールひとつひとつを確認していく過程が、そのまま視聴者に作品の世界観を説明していくこととぴったり重なり合う。それは観客の主人公への感情移入も高めることになる。  そしてこの種の物語は、その結末が大きく2つに分類できる。ひとつは「記憶を取り戻す=本来の自分を取り戻す」というパターン。もうひとつは「記憶は戻らない=新しい生を新しい自分にする」というパターン。もちろんこの2つを混ぜたような結論もありうるが、いずれにせよ「自分の欠けていた部分がなんらかの形で埋められる」という、太古の神話以来続く物語の黄金律に従ったゴールがそこに用意されることになる。  「ゾンビランドサガ」もまたそんなストレートな物語だった。  物語は主人公・源さくらがとある洋館で目覚めるところからはじまる。一切の記憶を失っていたさくらは、眼の前に現れたゾンビの少女たちから逃げ出すが、実は彼女自身もまたゾンビになっていたことに気づく。そこに現れたのはハイテンションな青年・巽幸太郎。さくらは幸太郎から、佐賀県を盛り上げるご当地アイドル企画「ゾンビランドサガプロジェクト」のため、自分がゾンビとして甦ったことを知らされる。かくしてさくらは同じくゾンビの二階堂サキ(伝説の特攻隊長)、水野愛(伝説の平成のアイドル)、紺野純子(伝説の昭和のアイドル)、ゆうぎり(伝説の花魁)、星川リリィ(伝説の天才子役)、山田たえ(伝説の山田たえ)とともに、アイドルグループ「フランシュシュ」として活動することになる。  物語はフランシュシュの各メンバーの過去(と佐賀のアレコレ)にスポットをあてながら進行。物語の終盤で、ついにさくらの記憶に焦点があてられる。フランシュシュの単独ライブ直前、さくらが軽トラックに轢かれてしまうのだ。これはもともとさくらが死んだ状況の再現で、結果としてさくらは、ゾンビになってからの記憶を失う代わりに、生前の記憶を取り戻すことになる。  そこで視聴者ははじめて生前のさくらがどんな人物だったかを知る。  生前のさくらはとことん“持ってない”少女だった。練習を積んで臨んだ学芸会のお芝居は、当日おたふくかぜで休んでしまう。死ぬほど勉強をして臨んだ高校受験も、思わぬ人助けにエネルギーを費やしてしまって失敗に終わってしまう。自分の“持ってなさ”にくじけ、フランシュシュとしてのライブにもきっと何かが起きると、さくらはそれまでの明るさを忘れたかのように、萎縮してしまう。  さくらがそこからどのように立ち直るかは本編を見てもらうとして、結論だけ手短に書くと、本作は最終的に2つのパターンを組み合わせて、「生前の記憶」を「今の記憶」が上書きしていくという形でさくらの物語のラストシーンを導いていた。  これは一見、「生き直し(生まれ変わり)」にも見えるラストだが、むしろ「成仏」と考えたほうが平仄(ひょうそく)が合う。人は死ぬ時に思いを残す。これがつまり「残念」だ。この残ってしまった思いが、ゾンビという偽物の生を与えられたことによって解消していく。  最終回にフランシュシュが、さくらが神々しく見えるのは、それが成仏した姿であるからなのだ。