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【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第4回 固い空間・柔らかい空間

高畑勲監督逝去で考えた話を、もう少し掘り下げてみたい。最大の疑問は「『アルプスの少女ハイジ』(1974)で空間を緊密に固めたのに、なぜボカシと余白の日本画調を選ぶように変わったのか」ということだ。高畑監督には「十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの」(徳間書店)という著書もあり、「かぐや姫の物語」(2013)で実践したのは当然ではある。劇中、姫が鳥獣戯画めいたスケッチを描くカットでもそれを示している。  しかし気になるのは、晩年の高畑監督が「アニメの閉鎖性」に苦言を呈していたことだ。アニメを含む娯楽映画が情報を盛りすぎるようになった結果、解釈の振り幅が乏しくなって想像力が囲いこまれてはいないか。映画の機能にも「共感」や「感動」ばかりが求められ、観客のほうで触発されて思考する余地がなくなってはいないか……。  自分にとっては概要そんな問題提起だ。これは筆者の中では、安彦良和インタビューで聞いた「先にレイアウトで空間を決めてから芝居という作り方が信じられない」という話につながっている。「機動戦士ガンダム」(79)は高畑勲・宮崎駿コンビの「ハイジ」と「母をたずねて三千里」(76)から大きな影響を受けた。両作に絵コンテで参加した富野由悠季監督自身も「人間を描く」という点でそれを語っている。そして実はアニメーションディレクターとして作画面を支えた安彦良和にも、影響は大であった。  アニメーターが背景原図と動きの軌跡を描くことでマッチングさせる「レイアウトシステム」自体は古くからある。だが「ハイジ」にシンパシーを抱いた安彦が調べたら、同作の場合は宮崎駿が原図を描くだけではなく、演技のガイドとなる最低限のラフを入れる手法だと判明した。これを応用すれば、安彦良和1人で1話分の原画制作も可能だ。それが「機動戦士ガンダム」における作画の革新だった。それには「作画監督(原画修正)」という作業が虚しくなったと述懐する安彦の心情も作用している。キャラクターが統一されていれば、修正は本来必要ない作業だ。部分修(正)ならともかく全修(正)なら、原画を捨てたも同然。それを避けたいという事情も含めて開発されたシステムで、レイアウト(原図)とラフ原画を1話分全カット先行して安彦が描き、その代わり修正は入れないことにした(入れても必要最小限)。  テレビシリーズでは第1話など限定された回で採用され、完成を見るのは動画マンを原画マンに昇格させた第19話「ランバ・ラル特攻!」であった。このシステムが劇場用新作で本格稼働したとき、ムックで第一原画として紹介したのは他ならぬ筆者なのだが、やがて長編をこの手法で作れるという実証作業でもあったという。事実、安彦良和初監督作品の「クラッシャージョウ」(83)では2時間を超える映画の大半のカットのラフ原画を1人で描ききり、世界的に見てもレアな事例となっている。  さて、そうなると矛盾が気になる。現在「クオリティ主義」のため主流になった「第一原画」「第二原画」のシステムは、筆者なりに「ハイジ」「ガンダム」の進化形だと理解していた。ところが安彦良和がそれに違和感を覚えたことから、思い違いだと分かったのである。安彦流の描き方は、絵コンテ上でもっとも大事な瞬間のヒトコマから始まる。そのとき、「キャラクターの眼」を重視する。たとえばシャアはアムロを殺意の目線で見つめ、アムロはそれを受けて殺意を返す。両者の眼は空間上の一直線で結ばれ、コマ単位でドラマが発生する。これが決まれば後は自然に描ける。剣を交える手前、交える瞬間、かわしていく動き。目線のラインを基軸に動きをつけることで、前後は自動的に決まるという。観客は主に「眼」しか見ないので、その最重要な部分からアニメートするわけだ。  こうしてラフ原画がそろったら、そのための舞台として原図を後から描く……と言われて、筆者は「あっ!」と驚いた。それはガンダムのレイアウトでは、なぜか原画の2枚目、3枚目と途中に原図が描きこまれたカットが多く、長年疑問を覚えていたからだ。まさかキャラクターの芝居が先に決まっているからだとは。しかし「アニメーター」であるならば、動きを先に描き、目線に生命を宿し、そこから世界を創造していくという順番は、言われてみれば理にかなった発想法なのだ。まず「動きあれ!」ということである。  90年代以後「アニメはやらない」と言い続けてきた安彦良和が総監督に就任した奇跡の作品「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」(15~18)の取材では、「現場ではレイアウトという言葉を禁止した」と聞いて「やっぱり」と納得した。絵コンテの拡大コピーで作業を進めたが、問題ないという。それが30数年前のシステムと同じ機能をはたしているのであろう。始めた人だからやめて、別の方法をとれるということでもある。  誤解ないようにしたいが、筆者としては「空間先行」の作り方を否定してはいない。すべてのアニメーターが宮崎駿や安彦良和のように動きと空間を一体として把握できない以上、必要であろう。しかし近年、3DCGでレイアウトや人物のガイドを出すことが主流になると、機械化されたカチカチの空間にキャラクターを閉じこめるようにも見えて、作品によっては若干の違和感と危惧も同時に覚えるようになってきた。  と、ここまで考えたとき、脳裏にひらめくのは先述の「かぐや姫」の映像である。姫が絵を描くカットとリンクして、「籠に閉じこめられた鳥を解放する」というショットが入っている。もちろんストーリー上は「都という制度の檻に封じこめられた姫の解放」の暗喩だが、それをボカシと余白の多い映像で見せることは「表現と内容の一致」につながっている。高畑勲監督もまた「始めた人だからこそ、やめたくなった」のではないか。そんなことも、映像の余白から想像できる。  こうした連鎖の発見が自分なりの「アニメの楽しみ方」なのである(敬称略)。

【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第3回 時空連続体が生み出す生活感

4月5日に高畑勲監督が亡くなった。大きな喪失感で落ち着かない中、マスコミからの追悼コメント依頼が来て対応せざるを得なくなったとき、「生活に潜む驚きと喜びの発見」という発想がいかに日本のアニメづくりの方向性を変えたか、影響の大きさを強調した。「美少女が食事など生活を見せるだけで30分もたせるアニメ」が当たり前になった現在、それを当たり前でなくした人がいるという歴史的評価だ。今回はその一環として、現代アニメに大きな価値を生む「生活描写」と「劇的空間の創出」について書いてみたい。  3DCGでアニメを作る時代、これは古くて新しい問題である。たとえば2017年に映画「BLAME!」で瀬下寛之監督に取材したとき、「3DCGの映画への適用は美術部門の舞台装置のCADから来ているから、ポリゴン・ピクチュアズは舞台づくりから入っていきたい」という趣意の話に大いに触発された。言われてみれば同社で「山賊の娘ローニャ」(14)を手がけた宮崎吾朗監督は、三鷹の森ジブリ美術館を手がけた建築家だ。同作の室内描写を見て「建築の才能は3DCGアニメ向きだな」と思ったことに、今の話はつながっている。  そうした諸々の事象は、高畑勲監督がアニメーター時代の宮崎駿と組んで実現した「描き割りからの脱出とリアル風空間における生活実感の獲得」という1970年代の挑戦を原点としている。