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【藤津亮太の「新・主人公の条件」】第1回 「ゾンビランドサガ」源さくら

記憶喪失の主人公というパターンがある。この手法は、異常な状況に放り込まれた主人公を描く時にとても有効だ。主人公は自分も含め、その世界のすべてをまったく知らない。だから、主人公がその世界のルールひとつひとつを確認していく過程が、そのまま視聴者に作品の世界観を説明していくこととぴったり重なり合う。それは観客の主人公への感情移入も高めることになる。  そしてこの種の物語は、その結末が大きく2つに分類できる。ひとつは「記憶を取り戻す=本来の自分を取り戻す」というパターン。もうひとつは「記憶は戻らない=新しい生を新しい自分にする」というパターン。もちろんこの2つを混ぜたような結論もありうるが、いずれにせよ「自分の欠けていた部分がなんらかの形で埋められる」という、太古の神話以来続く物語の黄金律に従ったゴールがそこに用意されることになる。  「ゾンビランドサガ」もまたそんなストレートな物語だった。  物語は主人公・源さくらがとある洋館で目覚めるところからはじまる。一切の記憶を失っていたさくらは、眼の前に現れたゾンビの少女たちから逃げ出すが、実は彼女自身もまたゾンビになっていたことに気づく。そこに現れたのはハイテンションな青年・巽幸太郎。さくらは幸太郎から、佐賀県を盛り上げるご当地アイドル企画「ゾンビランドサガプロジェクト」のため、自分がゾンビとして甦ったことを知らされる。かくしてさくらは同じくゾンビの二階堂サキ(伝説の特攻隊長)、水野愛(伝説の平成のアイドル)、紺野純子(伝説の昭和のアイドル)、ゆうぎり(伝説の花魁)、星川リリィ(伝説の天才子役)、山田たえ(伝説の山田たえ)とともに、アイドルグループ「フランシュシュ」として活動することになる。  物語はフランシュシュの各メンバーの過去(と佐賀のアレコレ)にスポットをあてながら進行。物語の終盤で、ついにさくらの記憶に焦点があてられる。フランシュシュの単独ライブ直前、さくらが軽トラックに轢かれてしまうのだ。これはもともとさくらが死んだ状況の再現で、結果としてさくらは、ゾンビになってからの記憶を失う代わりに、生前の記憶を取り戻すことになる。  そこで視聴者ははじめて生前のさくらがどんな人物だったかを知る。  生前のさくらはとことん“持ってない”少女だった。練習を積んで臨んだ学芸会のお芝居は、当日おたふくかぜで休んでしまう。死ぬほど勉強をして臨んだ高校受験も、思わぬ人助けにエネルギーを費やしてしまって失敗に終わってしまう。自分の“持ってなさ”にくじけ、フランシュシュとしてのライブにもきっと何かが起きると、さくらはそれまでの明るさを忘れたかのように、萎縮してしまう。  さくらがそこからどのように立ち直るかは本編を見てもらうとして、結論だけ手短に書くと、本作は最終的に2つのパターンを組み合わせて、「生前の記憶」を「今の記憶」が上書きしていくという形でさくらの物語のラストシーンを導いていた。  これは一見、「生き直し(生まれ変わり)」にも見えるラストだが、むしろ「成仏」と考えたほうが平仄(ひょうそく)が合う。人は死ぬ時に思いを残す。これがつまり「残念」だ。この残ってしまった思いが、ゾンビという偽物の生を与えられたことによって解消していく。  最終回にフランシュシュが、さくらが神々しく見えるのは、それが成仏した姿であるからなのだ。